ピアニストがやってきた

―天国で―

「ああ、ピアノひきたいなあ」
「おまえうまかったもんなあ、ピアノ弾けへんのはつらいやろ」
「天才ジャスピアニスト、早すぎる死、くやしいなあ」
「自分でゆうか? おれも、お前の車の助手席に乗ったこと、悔やむわ」
「もしかして、根に持ってる?」
「ちょっとな」
「まあ、ともに天国へ行けてよかったやん。はは。
ところで、ここにはピアノないんか?」
「見たことないなあ」
「うう、腕がうずくぜ」
「杏ばあさんに、相談してみるか?」
「誰や、それ?」
「生きてるとき、霊媒師とかやってた、怪しいばあさんや」
「怪しそうやな、そのばあさん。ピアノ弾かせてくれるんか?」
「わからんけど、連れてったるわ」

―地上で―

「ショウヘイ、ピアノは?」
「今からやる」
「はよせな、時間なくなるで」
「わかってるて、うるさいなあ」
「え?」
「なんでもない」
(ああ、もうやめたいな)
ショウヘイはピアノの置いてある部屋へ行き、ピアノの前に座ると、
しばらくぼーっとしていたが、やがてあきらめピアノの練習をはじめた。

「杏ばあさん、これ、おれの友だち」
杏ばあさん、するどい目つきで二人を見る。
「あのな、こいつピアノがひきたいんやて、なんかええ方法ない?」
杏ばあさん、無言のまま。二人もしばらく黙る。
「誰かの体を借りろ」
杏ばあさんが口を開いた。
「え?」

杏ばあさんはポケットから銀色の手鏡のようなものを取り出した。
そしてそれを水平に持ち、覗き込んだ。
そのまま、何歩か歩いた。二人は後に続いた。

「こいつや」
杏ばあさんは止まった。
「見てみ」
二人は言われたとおり、鏡を上から覗いた。そこに映ってるのは、自分たちの顔でなく、1人の少年だった。ピアノを弾いている。
「へたくそやなあ」
元ピアニストが言った。
「そんな感じやな」
友だちが言った。
「こいつの体を借りたら、弾ける」
杏ばあさんは言った。
「なんで、こいつなん?」
「あたしが決めたんや、文句あるか?」
「えっ、いいえ」
「ほな、こっち来」
「はあ」
「ここに顔近づけて」
元ピアニストは鏡に顔を近づけた。杏ばあさんは元ピアニストの頭をぐっと押した。すると、元ピアニストの体はするするとその手鏡に吸い込まれ、地上に向けて落ちていった。
「うわぁぁぁぁー!」
「えっ、大丈夫?」
友だちは驚いて見ていた。

ショウヘイはモーツァルトのソナタをよれよれ弾いていた。
母親は夕飯の用意をしながらショウヘイが練習をはじめたことに満足していたが、自分はピアノがひけないから、ショウヘイがよれよれ弾いていてもそれでいいのかどうか、よくわかっていなかった。
何度弾いてもつっかかる箇所でもたもたしている時、突然、ショウヘイは体中を叩かれたような感覚を覚え、「うわっ」ととびあがった。そして何がおこったかわからぬうちに、再び自分の指がピアノを弾き始めた。しかし、今度は自分の意志ではなかった。そのメロディーはどう聞いてもモーツァルトには聞こえなかった。母親が部屋の扉を開けた。
「何、その曲?」
「えっ?わからへん」
そういいながらも、指は流暢にジャズのスタンダードを奏でる。
「あんた、こっそりそんな関係ない曲練習してたん?」
「ち、ちがうって」
「ほな、なんで弾けんの?」
「わからんよー!」
「いいかげんにし!」
母親は弾くのをやめさせようと、ショウヘイの腕をひっぱった。しかし、指は鍵盤から離れることなく、ますます活発に動いている。
(うぉー、生き返るぜ!)
「えっ?」
ショウヘイは何がなんだかわからず、人の声のようなものが聞こえたのも、幻聴だろうと思った。母親は意地でも弾き続けているように見える息子にヒステリックに言った。
「まじめに練習曲せえへんのやったら、もうやめ! 先生にやめるって電話するわ!」
そう言って部屋の扉をバーンと閉め、出て行った。
「ああ、せいせいするわ、これでやめられる」
ショウヘイの気持とは関係なく、指は楽しげにピアノを弾き続けた。

「ただいまー」
「おお、帰ってきたか、どうやった?」
「久々に弾けて楽しかったわ」
「よかったなあ」
「また、弾きたなったら、杏ばあさんに頼も」
「杏ばあさんから請求書きてるで」
「えー、ちゃっかりしてんなあ、あのばあさん」


ショウヘイは宿題を前にぼーっとしていた。
(なんで、弾けたんやろ? なんかのり移ったんかな? きもー!
でもあんだけ弾けたらおもろいな。また弾けるやろか?)
次の日、ショウヘイは学校から帰ると、すぐにピアノに向かった。
これほどピアノを弾きたいと思うのは、はじめてかもしれない。
昨日、弾いたのはなんやったんやろ? とりあえず、モーツァルトのソナタの譜面を広げた。弾き始める。なんか、別に今までと変らない。いつもと同じ所で間違える。
「はあー、なんや」
その時、母親が部屋に入ってきた。
「やっぱりまじめにやる気になったん? お母さんもちょっと考えてんけど、せっかく今までやってきたんやし、もったいないし、先生にはまだゆうてへんのや」
(なんや)
ショウヘイはちょっとがっかりした。
(もう、おんなじ曲ばっかり飽きた、うまく弾けへんし)
ショウヘイは気をよくしている母親の機嫌をそこねるのも、あまり得策ではないと思い、がまんして、練習を続けた。

「杏さん、これこの間の分、これ今日の分」
元ピアニストは杏ばあさんに金色の硬貨を2枚渡した。杏ばあさんはポケットから赤いがま口を取り出すと、硬貨をしまった。そしてまたポケットから手鏡を取り出した。
「ちょうど、ピアノの近くにおるわ」
鏡をのぞき込み、杏ばあさんは言った。
「よし、ほんじゃ、いってくるわ」
「おう、存分に弾いといで」
友だちは手を振った。元ピアニストは手鏡の中に吸い込まれていった。

ショウヘイは音楽室の窓際で外を見ていた。グラウンドでは、体操服を着た生徒たちが何人か出てきていた。あと5分ほどでベルがなり、音楽の授業が始まる。
バン!
「うわっ、きた!」
ショウヘイはこの間と同じ、体中を叩かれた感覚を覚え、緊張した。そして自分の意思と無関係に、くるりと向きをかえるとピアノに向かった。グランドピアノのふたを開けると、いきなり弾き始めた。音楽室にいた生徒たちはいっせいにピアノの方を向いた。4~5人がピアノの近くに駆け寄った。その中にはショウヘイがひそかに好意をもっているミナモもいた。
「かっこいい!」
ミナモの言葉が信じられなかった。そして酔った。
「すげー、おまえ、こんなん弾けるん?」
カンタが言った。

「これ、ジャズやろ、この曲知ってるで、えーっとたしか、サマータイム!」
コウイチが言った。みんなにちやほやされ、ショウヘイは最高の気分だった。
(これこそ、おれの生きがい!)
(えっ?)
ショウヘイは今度こそ、誰かの声が聞こえた、と確信した。授業開始のベルがなりはじめたが、指は演奏をやめない。ショウヘイはあせりまくった。先生が来る。汗がでてきた。もうだめかと思ったら、ベルが鳴り終わって間もなく、曲が終わった。指から力が抜けた。
(助かった)
ショウヘイはピアノの椅子から急いで離れ、席に向かった。席につく前に、ミナモと目が合った。自分に関心を持ったまなざし。今まで見たこともなかった。ショウヘイはピアノが弾けるとは、これほど人をひきつけるのかと、感動していた。が、すぐに別の思いが浮かんだ。あの声は誰や? おれにのり移ったやつか? この間聞こえたのもこの声や! そう思うと、急に恐ろしくなってきた。


「杏さん、もっと長いことピアノ弾きたいんやけどなあ」
「それは無理や。体を借りて、自分のしたいことするには、せいぜい5分から10分くらいが限度や」
「なんや」
「だんだん、欲だしおって」
(うるさいばばあ)
「今、うるさいばばあと思ったやろ」
「ば、ばれた?」
元ピアニストは退散した。

ショウヘイはピアノに向かっていた。あいかわらず
よれよれとバッハを弾いていた。でも、今までとは
だいぶ違った気分で弾いていた。音楽室でのミナモの
憧れにも似たまなざしを思い出すと、うまくなりたい、
という気持がわいてくる。
「ちょっとうまなったんちゃう?」
母親が顔を出した。
「そうかな?」
ショウヘイはそう言われたらそうなのかな、という気も
して、少しうれしくなった。
それから間もなく、ショウヘイはレッスンへ出かけた。
歩いて2分ほどの所で、ひとり暮らしをしている初老の
婦人の家だ。
「こんにちは」
「はいはい、どうぞ」
ショウヘイは譜面を出すと、弾き始めた。
まずはよれよれとツェルニー練習曲を弾く。婦人は目を
つぶって聞いている。ショウヘイが弾き終わると、
「そうね、大体いいけど、今度はもうちょっとテンポを
あげてひいてみて」
ショウヘイは言われたとおり、早く弾いてみた。もともと
よれよれなのだから、さらに指がよたって、間違って、
もう聞いてられない演奏となる。しかし、婦人はいらいら
することもなく、
「今度はもっとうまくひけるように、練習してきてね」
と穏やかに言った。
「つぎは、何? バッハね」
ショウヘイは今度はゆっくりめに弾き出した。婦人は
また目をつぶって聞いている。なんとか無難に弾き
終えると、
「これは、いいわね。こんどはその次の曲やっといてね」
と言われ、ほっとした。
「次は?モーツァルトね」
婦人はそう言って、目をつぶった。その時、ショウヘイ
の体に衝撃が走った。
「やばい!」
そう思ったとたん、ショウヘイの指はモーツァルトの
ソナタではなく、ジャズのスタンダード「枯葉」を奏で
はじめた。

婦人は目を見開き、ショウヘイとショウヘイの指を見た。
(ピアノはこういう風に弾くんや、この先生ちゃんと
教えてくれてへんな)
再び声が聞こえた。
(お前は誰や!)
ショウヘイは思い切って心の中で聞いた。
(おう、いっつもすまんな、体借りて。おれは元ピアニスト、今は天国にいる)
「えっ!」
ショウヘイは思わず声を出した。
婦人はただ、感心してショウヘイの演奏に見とれ、聴き入っていた。
(天国にいるって、死んでんの?)
(そら、生きてたら天国行けへんしなあ)
(なんで、こんなことすんの?)
(理由は単純。ピアノが弾きたくてしかたないねん)
(・・・・・)
曲が終わった。
(今日はこれで終わりや。また来るわ。ありがとう)
「ちょっと待って!」
「えっ?」
婦人は不思議なものを見るような目でショウヘイを
見ている。
「あっ、何でもないです。関係ない曲弾いてごめんな
さい」
「あなた、こんなに弾けたの?」
「いやあ、まぐれで・・・」
「まぐれ? まあ、そんなことはあり得ないわね。
あなた、クラシックに向いてないのかしら?」
「さあ?」
「じゃあ、今度はモーツァルトを弾いて」
「はい」
ショウヘイは気が重かった。あの人がいなければ、うまくは弾けない。そう思いながらよれよれとモーツァルトのソナタを弾き始めた。婦人はちょっと怪訝そうな顔をしてまた目をつぶった。

元ピアニストはアイロンがけをしている。
「おまえ、最近、よう働くなあ」
元ピアニストの友だちが言った。
「そら、せっせと稼いで、杏ばあさんに渡さんなんからな」
「ピアノ弾けるようになって、お前、変ったわ」
「生きがいってやつかな」
「お前、死んでるんやけど」
「第二の人生や」
「ようわからんけど、おれも、なんか生きがい探そっ」

ある日、音楽の授業の前、ショウヘイは音楽室に向かっていた。すっとミナモが横に来て、話しかけてきた。
「ねえ、またこの間みたいにピアノ弾いてよ」
ショウヘイはあせった。この間みたいに弾くには、あの人がいなければだめだ。
「今日は、やめとくわ」
「えー、なんで?」
「ちょっと・・・、この前の体育でつき指してな」
「えっ、大丈夫?」
「ああ、軽いつき指やから」
「私も実はピアノ習ってるんやけど、へたやねん」
(ぼくもや!)
「そやから、木田くんすごいなって思ってん」
ショウヘイはミナモに悪い気がして、まともに目を合わせられない。

ショウヘイとミナモが音楽室に入った時、またショウヘイの体に異変が起こった。
(あかん!弾けへんてゆうたのに)
いやがるショウヘイにおかまいなく、体はピアノに向かった。
「木田くん?」
ミナモの声は聞こえたが、振り向くこともできない。そして椅子に座るなり、弾き始めた。マイ ロマンス。今度は前よりたくさんの生徒が集まった。
「すごい!」
「きれいな曲」
みんなにほめられたが、ショウヘイは気が滅入りそうだった。
(ミナモちゃんにあやしまれる。ねえ、元ピアニストさん、やっぱりこういうのぼくはよくないと思う)
(でも、うまく弾けたら楽しいやろ?)
(それはそやけど、ぼくが弾いてるんと違うし、なんかインチキみたい)
(そう言われたら、つらいなあ)
曲が終わると、ショウヘイの体は元にもどった。みんな、拍手をした。ショウヘイは少し下を向いて、少し笑った。
「指、大丈夫?」
ミナモが話しかけてきた。
「うん、思ってたより大丈夫みたい」
(ぼくがほんとはへたくそってわかったら、ミナモちゃんこんなに話しかけてくれへんよな)
ショウヘイはため息をついて、席に座った。

元ピアニストは少し悩んでいた。
「おれって自分勝手かなあ?」
「今ごろ気づいたん?」
元ピアニストの友はあっさり言った。
「いや、あの子に悪いかなっちゅう気もする」
「まあな、人の力借りてなんかできても、
その子のためにはならへん」
「やっぱり? でも、ピアノ弾きたいしなあ・・・」
元ピアニストは悩み続ける。

ショウヘイはめずらしく学校を休んでいた。少し風邪気味 だったが、実は音楽の授業をさぼりたかった。幽霊ピアニスト がどこかでショウヘイを見ててショウヘイが音楽室に行けば、 のりうつってくる、そう思っていた。夕方、玄関のインターホンが なった。家に一人でいたショウヘイは玄関のドアをあけた。
「あっ」
ミナモだった。
「どうしたん?」
「学校の手紙もってきてん」
ショウヘイが学校を休むのもめずらしいが、ミナモが届け物
をしてくれるなんて、想像もつかないことだった。
「ありがとう」
「風邪?」
「う、ん、でも、もうだいじょうぶ」
「そう・・・あの・・・実はショウヘイくんのピアノ聴きたいなって
ちょっと思って・・・」
「えっ?」
ショウヘイは言葉をつまらせた。
それで、手紙もってきてくれたんか。
どうしよう?

「ねえ、ちょっとだけ弾いてくれへん?」
「いや、そんな・・・」
ショウヘイがもじもじしていると、
来た!あいつ!
「うわ!」
ショウヘイは思わず、声をあげた。
そして、そのままピアノのある部屋へかけこんだ。
ミナモは驚いて、それからショウヘイのあとを追いかけた。
ショウヘイはピアノのふたをあけ、いきなり弾き始めた。
「Aトレイン」
元ピアニストがささやいた。
ショウヘイの指は華麗に鍵盤の上を舞う。
ミナモはその指に見とれ、ショウヘイの顔が苦しげなのに気づかない。
ようやく演奏が終わったとき、ショウヘイは勇気を出した。
「待ってくれ、幽霊ピアニスト!」
しまった、心の中で交信するつもりが・・・
ミナモちゃんにばれた!
もうやけくそや!
(なんや?)
元ピアニストの声はミナモには聞こえない。
「これで、最後にしれくれへんか?」
(・・・・・・)
「あんたが死んでピアノ弾けへんようになったのは、かわいそうやと思う。そやけど、おれはこまるんや。みんなおれがピアノうまなったって信じてるけど、おれはもうみんなをだまし続けるの耐えられへん!」

ミナモは動けない。
しばらく沈黙が続いた。ショウヘイは待つしかなかった。
(わかった。悪かった。おれは自分勝手な男や。おれはきみの体借りてピアノ弾けるし、きみはいつもよりうまく弾ける、あっ気い悪せんといてな。お互いにとってええことやって勝手に思っててん)
「そら、うまく弾けることが楽しいってなんとなくわかった。でも、自分の意思で弾いてるんちゃうやん。そやから心から楽しめへん」
(わかった。きみのゆうとおりや。おれかて、自分の体に誰かが乗り移って弾かされたりしたら、耐えられへん。ようわかる。おれは自分勝手なとこあるけど、人が苦しんでるの見て平気な男とはちゃう。きみがいやなら、もう二度とこうへんわ)
「これからは、自分の力で弾くよ」
(わかった。がんばってくれ。ピアノ弾けて楽しかったわ。ありがとう)
元ピアニストの声が少し震えてるように聞こえた。
「さよなら」
(・・・・・・)
ショウヘイは上を見た。何も見えないが、元ピアニストが上へのぼって行くような気がした。
これで、またへたくそなピアノしか弾けへん。でも、これでよかったんや、自分に言い聞かせた。
ミナモはただショウヘイを見つめている。

あーあ、どうしょ。
ショウヘイはミナモになんと言えばいいかわからなかった。こんなとこ見られたら、もうあかん。気持ちわるがられてもしかたない。
「怖かった?」とりあえずそう切り出した。
「ちょっと・・・」
ショウヘイはちらちらミナモの様子を見た。
少し困っているような気もした。
「あの・・・多分、ショウヘイくんのこと好き違ったら逃げ出してたかもしれへん・・・」
「えっ」ショウヘイはミナモの言ったことを頭の中で繰り返し、その意味を考えた。
「だから・・・とにかく、ショウヘイくんすごいと思う」
「えっ?」
「だって私やったら、いつでも来て弾いてってゆうてしまいそう。ピアノがあんなうまく弾けるんやったら、大歓迎やわ」
「そうでもないよ。なんか、逆にむなしくなってくる。自分が出来の悪い人間に思えて」
「そんなもんかなあ・・・そうかもしれへんなあ」
ショウヘイは話しながらもミナモの言った、「好き違ったら」が頭から離れない。
「ねえ、ピアノやめへんよね?」ミナモが確認するように言った。
「わからへん。今はちょっと複雑」
「でも、その幽霊ピアニストさん、よっぽどピアノ弾きたかったんやろな」
「そうやな」
ショウヘイはふと寂しい気がした。
「生きてるからこそ、弾きたいときに弾ける。私もがんばろっかな」
そうやな。ショウヘイはもう一度上を見た。

「そうか、もう弾きに行かへんのか」
「未練たっぷりやけどな。おれも男や。行かへんゆうたら行かへん」
「そうか・・・あっ、杏ばあさんや」
杏ばあさん、怖い顔をして近づいてくる。
「ちょっと、今日の分、はよはろてや」
「がめついばあさんやな」
「なんやて?」
「がめついばあさん!」
元ピアニストはそう言って金貨を杏ばあさんに渡した。
「なんちゅう・・・もう、ピアノの少年とこ、行かしたらへんで」
「ええですよーだ。もう行かへんて決めたもんね」
「はっ、行きたいくせに」
「うるさい!」
杏ばあさんは、にがにがしい顔つきで元ピアニストをにらむと去っていった。
「まあ、ほんまやったら死んだらピアノなんて弾けへん。お前はラッキーやったんや」
「そうやな・・・誰か俺に乗り移って欲しいってやつおらへんかなあ」
「えっ、まだやるつもり?」
「・・・わからん、多分せえへん。でも・・・わからん」
会話が途切れた。よれよれとしたモーツァルトの曲がかすかに、元ピアニストの耳に届いた。
「がんばって練習せえよ、俺の分まで・・・」